「自分は良い娘(息子)だったのだろうか?」と親がいなくなってから思い返す人がいる。
残念ながらその時は、「時すでに遅し」で、自分が思う「良い」娘(息子)であることが出来ない。
私はよく人から「親孝行だ」と言われるが、実はただ自分がこの「だったのだろうか?」の後悔をしたくないだけなのである。
高齢者となり、介護が必要となる家族といっしょに生活をしている人は、同じ時間を常に過ごしていることになるので、なんというのか・・・「自分の為」だけの時間というのがない日常、常に頭のどこかには「心配」や「不安」や「怒り」や「落胆」や、時には「憎しみ」がつきまとっているのだろうと思う。
私の家族は父と母、そして5歳下の妹の4人家族である。妹はどちらかというと、手のかからない、優等生であったが、私は反抗期もあり、更にはアメリカへ飛んで行ってしまったという、まぁなんやかんややらかしてしまった娘であった。
しかし、私がアメリカという、遠距離で生活をしているという事で家族の関係性がよくなったのではないかなぁと思ったりもしている。また妹も適当な距離感をおいて、両親と生活をしていた。長男に嫁いだということもあり、両親との同居という話は端からなかったというか、父が亡くなった時でも、母には「家に来る?」の一言もなかった(苦笑)。母に「家に来る?」なんて言ったら、迷わず「そうする!」というのが目に見えていたからだ。
という感じで、妹も私も「心配」や「不安」はもちろんあるが、一緒に生活をしていないので、「落胆」や「憎しみ・怒り」またイライラしたりという精神状態にはなっていないのが幸いしていると思う。
私は特別父が大好きとか母が大好きという事ではなく、むしろその逆といってもいいほどだ。特に母に関しては、もし肉親でなければ、絶対に友達になっていないであろうという「性格的に合わない」タイプである。
でも、私は「だったのであろうか?」の後悔はしたくない。だからもし自分が親の立場だったら何をしてもらったら嬉しいだろうか?自分には今何が親に出来るであろうか?と考えるようになった。
あとから(やってあげれば良かった・・・)と思うようなら、今やってあげよう、(連れて行ってあげれば良かった・・・)と思うようなら、母が歩けるうちに連れて行ってあげよう、そう思うようになった。
かなり前になるが、シアトルの日本人が経営する美容院に行った。その時に、そのオーナーさんが「あと何回親と一緒に飯が食えるかなぁ?なんて考えちゃいますよねぇ」って言っていた。そうか、帰国して当たり前のように親とご飯を食べていたが、この当たり前の日がいつか来なくなってしまうんだ・・・考えてもみなかったことだった。
私はとにかく親が喜ぶ事をしようと思った。そしてこんな私でも、両親が自慢出来る娘になれるなら・・・とこれもまた自分なりにやってみようと思った。これはけして「してあげる」という気持ちではなく、自分がそうしたいから、何かしたいと思うだけである。
まぁ大抵の親だと(というと語弊が出るが)自分の子供たちが可愛い、それはいくつになってもきっと親と子の関係は変わらないものだと思う(う~ん、これも語弊がでる発言になるが・・・)。大人になって知ったことだが、妹も私も両親にとっては”自慢の’娘たち”だったようだ。
ただ、親が年老いていくと共に、子が親に追いついてしまう時が来てしまい、あっという間に子が親の面倒をみる・・・う~ん、面倒をみるっていうか、親が自分で出来なくなってしまう事が多くなってきてしまうから、人の手を借りなければならなくなってしまう時が来る。
自分の親をみてみる。生前の父とはぶつかった。とにかくぶつかった。でも次第に老いていく父の頑固さを受け入れられる自分がいた。これはけして受け流すとか許すとかではなく、なんていうのかなぁ、野球で例えると、ミットでガツンとピッチャーからのボールを受けるのではなく、受ける時にグッとミットを腹に引き寄せ、ボールのエネルギーを弾かずに、吸収する?そんな感じ。(う~ん、伝わるかしら?)
父への思いを語るとすると、本が一冊書けるくらい色々ある。父については、また気が向いたときにBlogに載せよう(笑)。
簡潔に言ってしまうと、自分も大人になった・・・ということであろう。そして気持ちにも大人としての余裕ができたのであろう。
「自慢の娘」でいられることで、親が喜んでくれる、いやいや親が喜んでくれるから自慢するのだろう(笑)。
それではいったい何が出来るのだろう?
まずは頻繁に連絡を取る。もう何年になるだろう?私は毎日親に電話をしている。
ここ数年に亘っては、インターネット様様で、メキシコに行っても、ハワイに行っても、カナダに行っても、どこに行っても毎日欠かさず連絡が取れる。
たわいもない会話だけれど、それでも良い。とにかく毎日連絡をする。電話は、毎回父がとる。そして会話をする前に「おぉ~い、ばば、電話だぞぉ~」と母に代わる。父とは松山英樹選手がゴルフで上位を占めているときや、昔だったら、イチロー選手、松井選手、そして数年前からは大谷選手と、日本人プレーヤーが活躍している時に会話をする位だった。
PCやタブレットでビデオ通話もしていたが、母がスマホを持つようになってからは、毎日Lineでビデオチャットをしている。父が他界してからは、母に携帯の小さな画面越しに顔を見せるという事がどれだけ、母を孤独から守る事になっていることだろうか・・・と勝手に思ったりする。
今回、母がサ高住に入居するにあたって、私も妹も出来るだけ母が不自由を感じないように、家をコピーするかの如く、母の部屋を準備した。
時々祖母の事を思い出す。母方の祖母だ。ある日起きてこない祖母を同居していた叔父夫婦が様子を見に行くと、布団にうつぶせになり、起き上がれない祖母を発見したという。 突然腕の筋肉が自分を支えられなくなり、そのまま誰かが発見してくれるのを待っていたという。その日から祖母は入院そして、介護専門のような病院の大部屋で祖母の最期の日まで過ごしていた。
祖母のベッドの回りには、これといった私物はなかったような気がする。もちろん家族の写真もないし、当時は携帯電話もない。一番かわいがっていた従姉に子供が出来たが、潔癖症な従姉は一度もひ孫を祖母に会わせる事がなかった。
うちの母も月に一度面会に行くか行かないかという程度であった。
渡米を決めていた私に、祖母が「私はあの小さな窓からすら外が見えないけれど、あなたはいっぱいいろんな景色が見れるから頑張りなさい」と言ってくれた。祖母がどんな思いで毎日大部屋のベッドで何の娯楽もなく、ほとんど独りぼっちで毎日を過ごしていたのだろうと今更ながら胸が痛くなる。
妹と私ができるのは、母を独りぼっちにしないことである。あぁこんな所に入らなきゃならなくなってしまった・・・と思わないようにすることである。毎日があっという間に過ぎ、そして、月に何回か妹と一緒にご飯を食べに出かけたり、私が帰国した時は小旅行をしたり、ドライブしたりする事を楽しみにし、母がそれをサ高住の職員さんたちに「自慢」する事である。美容院に連れていき、化粧品やマニュキュアを買って、おしゃれをして、いつも綺麗な母でいてもらう事である。
いつか母の認知症が進行し、すっとんきょな事を言い出しても、私たちの事がわからなくなってしまっても、人が変わってしまっても、変わらず接していくことである。
私の親孝行は単なる自己満足、「だったのであろうか?」という思いを残さない、自分の為の自分孝行なのである。