母の引っ越し準備と「特別なお薬」 (サービス付き高齢者住宅に入居するまで)

母がコンクリート張りのお洒落な建物に入居出来る事が決まったので、私と妹は契約をしに後日そのサ高住に行った。妹が一緒で本当に良かった!もう何十年もペンを持って日本語を書くという事をしていない私は、妹がケラケラと笑ってしまうくらいに汚い字になってしまった。ペンを持つ手に力が入らないわ、漢字が読めても書けないわで、情けないを通り越して、もう自分の能力に「不思議」感を覚えてしまう。本のような契約書を説明してもらいながら、妹が住所を書いたり、名前を書いたり・・・私は判子を押す係り。

サ高住の契約書は介護のケアに関する契約と、住居の契約と二つある。そしてなぜか自分たちの控えもコピーではなく、同じように手書きで住所と名前を書き判子を押す。アメリカだと、契約書の自分たちの控えの分はコピーである。

母の入居の日は、私がアメリカに帰るちょっと前にすることにした。それまでは私が居るので、マンションに戻ってちょっとだけだが、一緒に過ごせる時間がもてる。ギリギリまでマンションで過ごしてもよかったのだが、私が居る間だったら、母が入居してから必要な物、要らない物を持って行ったり、持って帰ってきたりできるからと日にちに余裕を持たせた。

マンションにあるものは、ほとんど母の物である。父の洋服などは、妹と母が無駄なく必要とされる施設さんに寄付することができたといっていた。これもケアマネージャーさんからのお声がけで、知らなかったらゴミ(リサイクル)となってしまうところだった。

母に荷造りをさせると「あると便利」「使うかもしれない」といらない物まで詰め込んでしまうので、母が退院する前にある程度引っ越し荷物はまとめておいた。

一時期は母に認知症の進行を心配するような表情や行動がみられたが、退院してからの母は元気でちょっと派手目な88歳の母に戻っていた。まぁ88歳ですから、当然の如く、色々と「忘れてしまう」というか「覚えていない」事も大分出てきたが、それでも思考する力(すぐ忘れちゃうんだけど)はまだあるし、判断力もまだある。

これは入院中の「特別なお薬」のお陰だと思った。「特別なお薬」とは「栄養のバランスのとれた食事」「社交の場」「自分を尊重(大事)してくれる場」そして「安心できる場」である。

母にとって、もしかしたらこの「特別なお薬」は88年生きてきて、初めて処方されたものかもしれない。父が居た頃は、食事の支度を「しなければならない」ので毎日決まった時間にご飯を食べていたが、父が亡くなってからは、好きな時に食べたかったら何かをつまむ、という本当に不健康な食生活で、高齢者の見回りの一環にもなるお弁当の配達も、緊急入院をするとなった時に、妹が見にいったら、食べずに冷蔵庫に入っていたという。また自分は人と付き合うのがメンドクサイといって、ずっと社交の場を避けていた母には、友達がいなかった。だからといって父とは仲が良かったわけではなく、どちらかといえば、よく離婚しなかったなぁと思うくらいである。昭和一桁生まれの父だから、「男は黙って・・・」のタイプの人。母を労う言葉やありがとうの一言は全くなかった(と母は愚痴る)。

母の新居が決まったとはいえ、妹と私は母のマンションはこのままにしておくことにした。というのは、母に「戻る家」がある事で安心してもらいたかったからである。妹はまだ働いているし、義理の弟も自分の母親のサポートをしているので、毎週末に母の様子を見に行くということはなかなか難しい。私も母の為に二人の週末を束縛してしまうのは違うと思っていた。なので、妹夫婦には今までのように、月に1~2回母に会いに行くがてら、マンションの空気の入れ替えをお願いした。私が帰国した時に、外泊届けを出して、マンションに帰ってくればいい。だからできるだけマンションの部屋もそのままにしておいた。まぁキッチン用品や食器などは、私が帰国した際に使うが、もう絶対に着ないであろうお出かけ用の洋服とか、厚手のコートとか、靴とか、洗面台の下にある石鹸の予備とか・・・もう多分使わないのだから処分してもよいのだが、母が家に帰ってこれるうちはそのままに残しておこうと思っている。

そして私は母の新居になる、コンクリート張りのお洒落な三角の間取りの部屋を、できるだけ母のマンションと同じように、不自由がなく、今までのような生活ができるようにとセッティングをした。

自分でいうのもなんだが、信じられないくらいに、家にあるものがそのまま自然に新しい部屋にある感じになった。コンクリ-トの壁の三角の部屋にはベッドとトイレと大きな窓があるだけだ。TV、小さいタンス、テーブル、椅子などの家具は家にあるものを持って行った。妹が4歳くらいの時からずっと家族であるパンダのポン子ちゃんとスヌーピーのポクちゃん、その他のちいさなぬいぐるみたちも全員連れて行った。父の写真、私達の写真も写真立てに入れて「家族」もちゃんといるよという暖かい部屋にしてきた。お茶もコーヒーもいつものが、いつでも自分のコーヒーカップで飲めるように、ティファールのポットとお茶のセットも用意しておいた。とりあえず母が(あれがあったらなぁ・・・)というように、家にはあるのにというような気持ちにならないように、極力「家」に近い形にした。

心配性に「超」が付く私は、とにかく母が(こんな所にきてしまった・・・)と思わないように、出来る限りの事をした。まぁ裏を返せば自己満足に過ぎないのかもしれないが(笑)。

母がこの新居に移り、私が帰国するまでの残りの7日間、毎日母に会いに行き、その度にしっくりと馴染んでいる母の姿をみて安心することが出来た。やはり大事にされているという安心感があるようだ。

今回の帰国は、在留カードの取得から、住民票の届け、銀行口座のを開くというのがまぁ当初の予定で、あとは母となんとなく普通の毎日を過ごす事という事が目的だったのだが、帰国1ヶ月前の母の救急搬送と入院、サ高住という新居探しと引っ越しと、予想をしていなかった展開を図ったために、予定の3ヶ月ではちょっと日にちが足りないぞ!ということで、アメリカへの帰国を数週間延ばしたのであった。そして私は自分「超人化」したと思う程、いやいやマジで普通の人、それも60歳を超えたシニアには出来ないであろうと思う、私は正に「超人化」していたと信じる程、テキパキと信じられないくらいの機敏さで全てをこなし、アドレナリンがグツグツと体内で煮えたぎるままの状態でアメリカへ戻ってきた・・・が・・・その数週間後に!

え~!?妹と私の第2希望だったところに空きが出来た!?

投稿者: love4legkids

渡米なんて憧れの世界だと、なぜかずっと思っていた。でも来ちゃった!スーツケース1つで渡米した私は今や日本にいた年月を越しワンコと旦那君と、カナダとの国境とメキシコの国境を季節のおいしいどころ取りで生活している元気なオバチャンです。

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