今から14年前に、幼馴染が卵巣がんで亡くなった。
私達の母親たちは、元祖ママ友(笑)昭和の経済急成長の中で出来た、当時はモダンな都営住宅にたまたま同じ棟に住み、私達が生まれる前からの友達。
なんの争いもなく、ただ子供達が同じ年で、ご近所で、困った時は助け合い、珍しいおかずを作ったら「一口だけど」とお裾分け。そしてそのお返しの器はいつも空では返さない。何もなければ小さいお花を入れて返す。そんな素敵なママ友。そして80歳を過ぎた今でもお互いを気にかけている。
この母親たちに育てられた私達も、いつも当たり前のように一緒にいた。




私達の時代は学校に教室が足りなくなる位子供達が居た時代だ。中学に入ると、1学年14クラス、それも1クラス47名くらいのマンモス校。彼女は1年1組、そして私は1年13組。校舎も違う。それぞれにクラスの中や部活動の中で友達ができ、同じ都営住宅の同じ棟から登校しているのに、顔もみることもなくなってしまった。
そうこうして、私がアメリカで生活をするようになって4~5年経った頃だろうか?ふと彼女の家の電話番号が頭に浮かび、なぜか何の躊躇もなく国際電話をしてみた。
もう20年近く経つのに、変わらない懐かしい声が電話の向こうから聞こえてきた。その20年のギャップはいきなりふっとんで、彼女は「遊びに行く!」と我が家に来てくれることになった。
彼女はずっと自然に付き合える、私にとって唯一の「幼馴染」だったのである。多分彼女にとっても私が唯一の幼馴染だったに違いない。
彼女は普通の友達ではなく、いっしょに育った「幼馴染」なのである。何年時が経ってしまっても、住む場所が違っても、彼女はいる。それが当たり前だと思っていた。
私が帰国したら、私達が生まれ育った街を二人で回ってみよう!ずっとそう思っていた。彼女と私だけしかわからない思い出を辿って。きっと膝から崩れ落ちるくらい笑いこけながら、思い出の街をあ~だ、こ~だといいながら歩くんだろうなぁと。でもその想いはかなわなかった。
筆不精の私と違い、彼女は達筆な字で年賀状、クリスマスカード、手紙とよくくれた。手紙には通常、彼女が働いていた幼稚園の広報誌や園児と一緒に撮った写真が入っていた。そしてその写真の説明や近況報告みたいな事が書いてあった。が15年前に来た手紙には、重大な出来事が彼女らしくサラッと書いてあった。